会長時代の思い出と学会への期待

歴代会長からのメッセージ

第8期の会長から現会長に会長当時の思い出や学会に対する期待などメッセージを寄せていただきました。※下記タイトルをクリック頂くとそれぞれのメッセージをご覧いただけます

中小企業学会会長時代の思い出

第8期会長 港 徹雄  

 私は2001年10月に日本中小企業学会第8期会長に選任されました。学会創設から20年余が経過しており、運営実態と学会会則とが乖離するなどの問題がありました。そこで私が最初に手掛けたのは会則の大改定でした。例えば、原会則2条「目的」では、「日本の中小企業の研究、世界の中小企業の研究」としか規定されていませんでした。学会の設立目的の規定は学会の方向性を示す重要なものであり、私は「本会は、中小企業研究に関心をもつ多様な専門分野の研究者を結集し、中小企業の総合的・学際的研究を発展させ、その成果の普及を図ることを目的とする」と改定しました。中小企業研究者はそれぞれの専門の学問分野をもち、その学問体系の基盤に中小企業研究を発展させるべきだという山中篤太郎初代会長の考えに賛同し「多様な専門分野の研究者」と明記しました。

 次に私が取り組んだのは、中小企業学会の国際化です。日本の中小企業研究は100年の歴史を持ち膨大な研究成果の蓄積がありますが、国際的な研究交流は希薄でした。他方、米国や欧州では60年代以降、中小企業研究が活発になり高い研究成果を挙げています。中小企業研究の「ガラパゴス化」です。こうした状況を打破するために、海外から著名な中小企業研究者を招聘して講演と討議を行うため学会全国大会に「国際交流セッション」を設けることを企画しました。このための費用は長山宗広会員のご尽力で信金中金からの提供が実現しました。

 会長として2002年~2004年の3回の全国大会の企画・運営に関与してきましたが、いろいろなハプニングに直面しました。2003年福岡大学で開催された23回大会は「アジア新時代の中小企業」ということで中国等から講演者を招きましたが、SARSの大流行と重なり福岡大学から国際交流セッションを学外で開催するよう要請されましたが、中国人演者の健康チェックを厳重にするからと、何とか学内開催を認めてもらいました。2004年関東学院大学で開催された大会は「知的所有権と中小企業」という、これまでにないテーマで大いに盛り上がりましたが、夕方、台風23号が直撃したため懇親会は取り止めになりました。その帰路、電車は不通で、多くのコンテナトラックが横倒しになっていました。23回大会は深く「記憶に残る」大会でした。


日本中小企業学会運営に関わって

第9期会長 渡辺幸男  

 日本中小企業学会のホームページに記念の集合写真が掲載されている学会の設立総会は、1980年に慶應義塾大学で開催された。その際、当時、慶應義塾大学経済学部の助手であった私は、指導教授である伊東岱吉先生(第2期会長)、そして大先輩の兄弟子である佐藤芳雄さん(第6期会長)のもとで、院生時代の先輩の伊藤公一さんや大林弘道さん、院生仲間の三井逸友さん等とともに総会の準備を手伝った。それから40年、研究者としての私の主たる土俵は、日本中小企業学会であった。1981年5月の第1回東部部会で報告をしたことから始まり、私の主要な学会報告は、ほとんど本学会で行われた。

 また、学会事務を何回も担当した。最初の事務局補佐は、伊東岱吉第2期会長と佐藤事務長の下で会員の名簿管理の担当であった。事務局任期途中の1985年春に英国に留学することになり、私の担当した事務を当時佐藤芳雄ゼミから大学院に進学したばかりであった堀潔現副会長と高橋美樹現常任理事の両氏に引き継いだ記憶がある。当時、佐藤事務長は、私や院生の両氏に依頼できないような手紙等の処理については、佐藤夫人に依存していたと記憶している。会員数が200名程度であり、有能な(伊東ゼミの先輩でもある)佐藤夫人のご助力もあり、このような少人数の体制でなんとか対応できたと記憶している。

 2回目の事務局担当は、第6期佐藤芳雄会長の下での事務長であった。当時院生であった粂野博行現幹事に手伝ってもらい、2名で会費と名簿の管理を中心とした業務を担った。粂野さんには、大変多くの負担をかけた、と後から反省している。なにせ、私の性格であるから、カッカとしながら自分でも事務作業を行い、一緒に私の当時の研究室で作業を行う粂野さんにプレッシャーをかけ続けた記憶がある。さらに、この時は、佐藤芳雄会長が任期中に逝去されるということも生じ、今光副会長(当時)に会長代行を務めていただき、会長代行を中心とした理事の今後に向けての判断をサポートするための事務的作業を全面的に担当することになった、と記憶している。

 3回目は、自身が第9期の会長として3年間、高橋美樹現常任理事に事務長を担当していただき、学会運営を行なった。私自身は、前任者の港徹雄第8期会長と性格的には大きく異なり、何よりも学会活動に支障を来さず、結果的には三井逸友さんになるのであるが、後任の会長に無事引き継ぐ、ということをもっぱら念頭において任期を全うすることを目指した。

 このように事務局を何度か担当し、その中で一番努力したこと、あるいは、前任者の方の成果を維持するという点で大事にしたのは、東部部会の運営であった。事務局に関わった初回は、事務補佐であり、佐藤芳雄さんが部会運営にも努力されているのを見ながらその運営を学んだと言える。当時は、現在、堀副会長が担当している部会運営を、会長とその事務局が担当していた。その中で、最も心を砕いたのは、部会が会員の研究成果の発表の場であると同時に、それについて、部会のメンバーが実質的に納得いくまで議論できる場であるようにすること、あるいは当時存在していたそのような中小企業学会東部部会の伝統を受け継いでいくことであった。つまり、議論の沸騰途中で、時間を理由に打ち切ることがないように、できればエンドレスに部会を行う、いわば、大学院の授業での発表のように、内容豊富な議論ができる場にする、ということであった。そうは言っても、いろいろなところから集まった人々からなる部会を本来的な意味でエンドレスで行うことは難しいので、報告時間以上の討論時間を当初より設け、報告者も一般参加者も、ある程度納得いくだけの議論をできる場を提供することを目指した。土曜の午後に部会をひらけば、午後全体を使い、報告数はできれば2報告、多くても3報告とし、それ以上の報告希望がある時は、午前中から、さらには翌週の土曜日も部会を開催すると言った形で、実質的に議論が十分できる場の提供に努めた。

 近年、ともすると若手研究者の学会報告の実績づくりを優先し、数をこなすことが先走り、報告時間以上に討論の時間が削られるような学会が多く見られる。中小企業学会でも全国大会のように多くの報告者が報告する場を2日間の中で実現するには、仕方のない場合もある。しかし、地域的に限定されている地区部会では、会員が集まりやすいこともあり、上のような2週間にわたって開催することも許された。何よりも、実質的な議論の場を、大学院といった特定の(少数の)教授の下での議論や討論ではなく、多様な中小企業研究者から多様な多数のコメントもらい、それに反論し、議論することは、報告者にとって、そして部会参加者にとって研究を深める上では極めて意味のあることである。そのような場を東部部会で実現し維持する努力をした。

 これには、自分自身が何よりも報告者と十分議論したいこと、そのために他の方が議論する時間を削ってはいけないという自覚、これを両立させるためには、十分な討論時間を用意するということが不可欠である、といった個人的な理由もあった。

 このように第9期会長として過ごした故に、その後の中小企業学会のあり方に影響を与えるような制度的な意味での大きな変化をもたらすことは全くなかった。ただ、活発な議論ができる学会、中小企業を対象に、多様な考え方と学問的背景を持った人々が自由闊達に議論できる学会の、少なくとも維持を担い、次の三井逸友第10期会長へと引き継ぐことができたと考えている。


日本中小企業学会の40年に思う

第10期会長 三井逸友  

 日本中小企業学会の四十年の歴史にかかわってこられたことは、私の人生にとって大きな財産であり、誇りでもある。長い伝統を有する日本の中小企業研究を継承発展させる場としての学会の設立と活動展開にどれほどの貢献をなせたのかには自信はないが、その歴史とともにあったことは間違いない。

 1980年の学会設立(慶大三田)の折りには私はまだ院生であり、「下働き」をしただけであった。以来、翌年の第一回大会での研究報告を始め、さまざまなかかわりを持ち、2007年から2010年には学会会長を務めることになった。学会と研究の伝統を築いてこられた諸先生方の名を汚すことのないように努めたつもりであるが、同時に時代の要請にこたえるべき課題にも取り組んだ。港徹雄、渡辺幸男会長時代に実現された、会則改正と査読制導入などの成果を踏まえ、「若手」の研究奨励、国際学会等での研究発表推進などがそれである。また、一方では研究と交流の機会の「地域化」として、北海道支部の基礎を築き、他方では国際組織との関係強化をすすめた。

 後者に関しては、財政負担や参加機会の意義等から困難もあり、最終的には「JICSB中小企業研究国際協議会日本委員会」を、ICSBの支部組織として新たに設立するに至った。これらを含め、学会の活性化と役割強化にはいくばくかの貢献をなせたのではないかと考えるものの、他面支出の増加にもつながり、本来の使命たる学会の会員拡大と財政基盤強化は十分なしえず、のちの役員諸氏に宿題を残したのは心残りである。

 初代会長山中篤太郎先生は、中小企業研究の活性化と発展に向け、「学会組織設立」、「研究レビュー刊行」、「研究奨励賞実施」という3つの柱を掲げられたという。「研究レビュー」に関しては、旧中小企業事業団中小企業研究所、のちの財団法人中小企業総合研究機構がこれを担ってこられ、これまでに四次にわたる刊行が行われ、私も第四次・2000年代版の編集代表を務めた。また、これには大阪経済大学中小企業・経営研究所から多大な貢献協力を頂戴している。「研究奨励賞」は、商工組合中央金庫、一般財団法人商工総合研究所が主催をしてこられ、すでに40年以上の歴史を重ねている。私も現在、審査委員の末席を汚している。

 学会大会での国際交流セッションを支えてきて頂いている信金中金地域・中小企業研究所を始め、これらの諸機関諸団体のご協力あって、日本の中小企業研究は支えられてきた。そうした良き伝統が守られ、多様な視点・関心・対象・論理・方法・主張が中小企業に寄せられ、闊達な議論が高まり、研究のいっそうの発展が遂げられることを願ってやまない。

 終わりに個人的エピソードを紹介しよう。ワードプロセッサというものが本格的に登場普及してきたとき、学会の場で、私はこれが印刷出版のあり方だけではなく、日本語の執筆表現そのものを画期的に変えてしまう、そのあげくに「手書きの原稿」など出せば、解読料を取られるようになるだろうと語り、居並ぶ大先生方の失笑を買ったことを憶えている。まだ、インターネットどころかPCも普及していない頃だった。のちには、手持ちのモーバイルPCとPHSを接続し、手元でインターネットにアクセスできると演じて見せた。もちろん誰もがスマホを持つ時代が来るなど、誰も予想もしていなかった。


日本中小企業学会40周年に想う

第11期会長 髙田亮爾  

 日本中小企業学会40周年は、私にとりましても貴重な研究機会の歴史であり、改めてさまざまなことを想い出します。

 本学会は1980年10月に設立され、翌81年第1回全国大会が大阪経済大学にて開催されました。当時、西部部会では藤田敬三先生を中心に巽信晴先生、山本順一先生等が部会運営に当たっておられました。私は大阪府立商工経済研究所に勤め、中小企業の実証的研究に携わっておりましたが、巽先生、山本先生から統一論題での研究報告を勧められました。未だ若輩者の私には統一論題への登壇は大変荷が重く固辞致しましたが、結局統一論題にて研究報告させて頂くことになりました。当時、「経済の国際化と南大阪の綿スフ織物業」というテーマで調査研究に取り組んでいたことが、第1回全国大会・統一論題「国際化時代における地域経済の発展と中小企業」にちょうどフイットしていたためと思われます。

 その後、1983年、86年、89年と、自由論題にて報告させて頂き、さらに93年には再び統一論題にて報告させて頂く機会を得ました。当時は学会論集への掲載論文に査読制は未だ導入されていなかったものの、質疑も含めて学会報告は大変貴重な機会であったと思います。同時に、討論者や座長を仰せつかることが多くなりましたが、それもまた自らの研究に刺激となってきました。

 また、学会運営面では1995年から幹事、98年から理事を仰せつかることとなり、さらに2010~13年には第11期会長という重責を担うこととなりました。微力ではありますが、学会の発展にいくつかの点に注力しつつ、努めさせて頂いたところです。

 第1は、財政基盤の再構築について「入るを量りて出ずるを為す(制す)」に従い、会費徴収と支出抑制に腐心しました。時に、会員の皆様に大変心苦しい、ご協力をお願いしたこともございました。

 第2に、全国大会、地区別部会の一層の充実・発展のため、全国大会における統一論題企画の早期化、自由論題セッションにおける積極的応募及び事前評価の弾力的運用等を図りました。かつて自分が貴重な機会を得た学会報告の場を大切にとの思いからでした。

 第3に、学会活動の重要な成果である『学会論集』における査読制の適正な運用に注力させて頂きました。

 第4に、国際学会報告助成の年2回募集、若手研究奨励賞等による若手育成、信金中央金庫の協賛を頂きながら国際交流セッションの充実(全国大会)、部会を中心として社会・地域との連携等につきましても、前期から引き続き注力したところです。

 第5に、会則、規程、内規、実施細則などの整備を図るとともに、学会運営組織として重要な理事会(役員会)、会員総会における議事録作成の定例化を図りました。

 第6に、学会ホームページの一層の充実により、とくに対外的広報活動の充実を図りました。

 いずれも決して十分なものではありませんでしたが、当時の副会長・常任理事・理事・幹事・監事・地区部会担当者等の各位並びに会員各位のご協力のもと、一応の役割を終え、次の第12期に繋げることが出来ましたことは大変嬉しく思っております。

 今後とも、本学会設立の目的・原点である「中小企業研究に関心をもつ多様な専門分野の研究者を結集し、中小企業の総合的・学際的研究を発展させ、その成果の普及を図る」(会則第2条)べく、社会的使命を果たしてゆくことが期待されましょう。


日本中小企業学会第12期を振り返る

 第12期会長 寺岡 寛  

 会長として、私は三年間送った。歴代会長へ、その長短感覚を聞けば、一応にあっという間であった、と答えるにちがいない。私もそうであった。長いようで、短かった。必然、やれることに優先度を設定した。なかには、若い頃から、会長を目指してきた会員もいたかもしれない。私は違った。予期せず会長となった。そこで、過去に遡って、中小企業学会の課題を整理してみた。

私の感じでは、三つあった。一つめは、若手研究者の育成。二つめは内向きとなった学会員の関心を、外へと向けること。直近では、三つめとして、学会の財務体質の改善。

 一つめと二つめは、いずれも個々の会員の意識問題である。歴代会長が旗振りしても、なかなか難しい課題であった。人の意識など容易に変わるはずもない。背景に、会員の意識も変わった事由もあった。

少子高齢化は、会員の年齢別構成にも着実に現れた。若さ溌剌の大学院生に代わって、社会人大学院生の熟年世代も増えた。若手研究者の育成の意味。それ自体も変わってきた。二つめは、外国で会員が発表することの奨励と支援である。これに関連して、外国研究の奨励である。私たちの学会には、以前と違い、各国ごとの専門研究者の数は極めて少なくなった。

 いずれの課題も私には、荷が重かった。三つめの課題に取り組んだ。財務体質、とりわけ、いつの間にかに、水膨れした経費を思い切って削減した。これには事務局を務めた寺島氏、大前氏と私は知恵を絞った。なんとか、年会費の引上げを回避した。将来のための余剰金を蓄えた。ここらあたりが精一杯で、第13期体制へ引き継いだ。

 最後に、気になることをいくつかふれてみたい。かつての学会活動に比して、報告テーマは、多様化・多彩化してきたかにみえる。しかし、そこに多様・多彩な見方や視点があるだろうか。私たちの学会は、どこか経営評論学会のような感じになってきた。そう感じてきたのは、私だけであろうか。

中小企業の個別の経営を取り上げることが、悪いわけではない。課題は、経営を取り巻く社会・経済・政治などの分析がまずはもって必要不可欠である。それが「経営環境の変化とともに・・・」のような枕詞ばかりとなった。詳細な分析がいつのころから消え失せてしまった。

 中小企業研究には、さまざまな学問的方法論と理論が持ち込まれてよい。そうでなければ、経営評論風の言説とケース紹介だけが跋扈する。私たちの良き伝統である自由闊達な意見交換の場を残しながら、つぎの50回大会にむけて、社会・経済・政治、そして中小企業を問う努力と工夫が必要となっている。


前会長からのメッセージ:学会のさらなる発展に向けて

第13期会長 岡室博之  

 私は2016年11月から2019年10月までの3年間にわたり、第13代会長を務めました。会長として、前任の寺岡寛先生から引き継いだ2つの課題(若手研究者・新入会員の育成と、国際交流の活発化を通じた学会員の研究水準向上の支援)を掲げ、成熟期を迎えた本学会の改革に臨みました。就任後最初の会報(2017年1月の第70号)で、「変革の時」と題する挑発的とも言える会長挨拶において、学術研究のグローバル化の下で日本の中小企業研究が世界の中小企業研究の発展から取り残されつつある危機を訴え、「その変化に遅れず、本学会を真に日本の中小企業研究を代表し、若手研究者を魅了し、世界に通用する学会にすること、少なくともそのための道筋をつけること」を自分の目標に掲げました。

 具体的に取り組んだのは、1)ニューズレターによる会員への情報提供、2)国内外の関連学会・組織との連携強化、3)先達が創設された学会事業(海外の学会等への派遣助成、若手研究奨励賞)の制度改革(応募条件等の見直し)、4)学会論集の改革です。ニューズレターは3年間にほぼ毎月、31回発行し、本学会の主催・共催事業、会員が主催・報告するワークショップ、中小企業研究に関連するさまざまな国際学会・研究会の報告募集等を、会員にご案内しました。日本ベンチャー学会・企業家研究フォーラム・ファミリービジネス学会と「アントレプレナーシップ・コンファレンス」を毎年2月に共催し、ACSB(Asia Council for Small Business)と共催で2018年9月に第6回アジア中小企業会議を東京で開催しました。3名の若手・中堅会員の国際学会における研究報告を助成し、若手研究奨励賞の受賞者を2名出すことができました。学会論集のあり方についても当初いろいろ大胆な改革を考えていましたが、同友館のご協力を得て、バックナンバーを含めて論集のオンライン化を進め、掲載論文が英文要旨を含めて世界中から無料で検索・引用できるようになりました。

 上記のような改革や新事業を進め、一定の成果が得られたのは、本部事務局メンバーと副会長・役員各位、そして各委員会の先生方のご協力とご尽力のおかげです。しかし、会長任期の3年間で、私が掲げた「若手研究者を魅了し、世界に通用する学会にする」という目標が十分に達成されたとは言えません。本学会は創業から40年を経て安定した中堅企業になりましたが、今後もこれまでの成果に甘んじることなく、若手・中堅会員から積極的に意見を出してもらいながら、ベンチャー・スピリッツをもって、「世界に通用する」魅力的な学会へと、さらに発展してほしいと思います。


日本中小企業学会 第40回全国大会に寄せて

第14期会長 佐竹隆幸  

 今大会は日本中小企業学会において、40回という節目の大会になる。長年にわたり日本経済政策学会代表理事を務めてこられた、山中篤太郎先生を初代会長に選出し、40年という歴史を歩んできた。今回の大会においては、これからも続いていく中小企業研究における一つの中継点として、これまでの軌跡を振り返り、今後に活かせるような貢献ができればと考えている。

 日本において最初に成立をした「中小企業論」としては、問題性論としての「中小企業論」があげられる。これは後進的に発展してきた日本経済における社会問題としての中小企業問題性論として成立をしている。その後の高度経済成長期という後進的条件でもある資本不足かつ労働力過剰下において、国民経済の中で大きな比重を占めるようになりながらも、大企業と比較し低賃金・低生産性の中でしかも支配従属関係が硬直化するなかで、いかにして存立するかというのが中小企業問題の核心である。

 そのなかでは、山中篤太郎先生の第二次世界大戦後の日本の中小企業研究の集大成といえる研究に加え、小宮山啄二先生、藤田敬三先生による下請論争、および藤田敬三先生と小林義雄先生による系列論争についてはその後の中小企業論における大きな貢献であるといえる。

 その後中小企業問題性論が深化することにより、マルクス経済学の立場を超え、日本の経済成長という背景から積極論・消極論が指摘された二重構造論が有澤廣巳先生により提示され、以後『経済白書』はじめ、多くの論者により展開されるようになったことから、中小企業問題のとらえ方に変化が見られた。

 学問としての伝統的な中小企業論は、日本においては日本経済における問題性論として論じられることが多かったが、欧米での中小企業への関心が高まるにつれて、中小企業分析のグローバル化も進展してきた。日本の「中小企業論」は従来から主流であった中小企業存立形態論から、起業・創業化問題や企業間連携をはじめとしたネットワーク・クラスターについて主に考察をする「中小企業経営論」へ拡大し、そのための育成・振興策について経済活性化・産業政策の視点から分析していく「中小企業政策論」もまた深化したわけである。

 日本の社会科学、特に経済学・経営学が欧米で進化・発展した学問体系をそのまま受け入れ、日本においても生成させてきたのは事実である。そのなかにおいて「中小企業論」は唯一といってよいほどの、日本で歴史的・個別的に発展を遂げた社会科学の中で例外的な分野と位置付けることが可能であろう。

 以上のように、日本における「中小企業論」は、異質多元的な主体としての中小企業について、現象面だけをとらえて理論化するのではなく、新しい課題や問題提起も内包した理論形成が求められる。コロナ禍により、厳しい市場環境におかれ、存立があやぶまれる中小企業が多く出現するであろうとみられる現代であるからこそ、これまで日本において中小企業が発展をしてきた背景・要因について、先達の先生方の研究から、多くを学びなおすことが求められていると考える。今大会においても、積極的な議論が展開されることを望む。